第4回 
アドラー心理学のツボ、
「共同体感覚」とは何を意味するのか



CONTENTS

アドラー心理学のキー・コンセプト「共同体感覚」

世の中、私的理論で生きている人があまりにも多い

共同体のコモンセンスに準じて生きる

我々が貢献すべき共同体とは何か?

共同体感覚は宇宙まで広がる


 

アドラー心理学のキー・コンセプト「共同体感覚」

 

 この連載の第1回で解説したように、アドラー心理学はあるゆる人が持つ劣等感に注目しました。そして我々人間が持つ器官的劣等感を補償するために、人類は共同体を形成するようになりました。それは何万年、何十万年も前のことかもしれません。

 明らかなのは人類が共同体を形成したのは極めて古い時代だということです。そして注目すべきは、いまだ人類は家族や国家という共同体を形成して生きているという事実です。要するに我々は、共同体なくして生きられない、そんな定めを何万年も前から背負っているのかもしれません。

 アドラーはこの共同体に注目しました。そして仮に人が共同体に所属することなしに生きていくのが困難だとしたら、人の幸福は共同体との関係に大いに左右されるのではないか。アドラーはこのように考えました。その上で人が幸福感を得るには「共同体感覚」を得ることが欠かせないと考えたわけです。

 では、アドラー心理学のキー・コンセプトでもある共同体感覚とは何なのでしょう。


 

世の中、私的理論で生きている人があまりにも多い


 共同体感覚を平たく言うと、人が全体の一部であること、全体とともに生きていることを実感すること、そうした感覚を指します。

 こうした共同体感覚の意味をより際立たせるには、共同体感覚を欠如した状態を考察すればいいでしょう。それは私的論理に基づいて生きている状態だと言ってもよいでしょう。

 私的論理とは自分の利益を第一に考える生き方です。アドラーは私的理論の虜になって生きている人を次のように表現しました。

「彼らが自らの目標を達したときに、彼ら以外の誰も利益を受けないし、彼らの関心はただ彼ら自身にしか及ばないのである。彼が成功しようと努力するその目標は、虚構の個人的優越にすぎず、彼らの勝利は彼ら自身にとってだけ何か意味あるものにすぎない」(『人生の意味の心理学』)

 これが共同体感覚の欠如した私的論理による生き方です。

 アドラーは人が生きていくには共同体に所属するのが欠かせないと考えました。しかし、共同体の中で生きている人が、自己の利益のみ考えて、他者から得ることばかりを考えればどうなるでしょう。誰もが相手から搾取することばかり考えれば、やがて共同体は成立しなくなります。

 共同体なしでは生きられない人間にとってこれは極めて不都合です。


 

共同体のコモンセンスに準じて生きる


 このように考えると、共同体に生きる人は、まず、共同体に貢献することを考えなければなりません。共同体から「得る」ことを考えるのではなく、まず「与える」ことを考えねばなりません。

 共同体に貢献する(あるいは与える)ということは、その共同体が価値のあるものと考えていることに奉仕することです。アドラーは共同体にとっての価値あるものをコモンセンスと呼びました。

 言い換えるとコモンセンスを理解し、これに準じた貢献を共同体に対して行う。そうすれば共同体はその人に感謝するでしょう。このときに得られる感情、これが共同体感覚にほかなりません。

 そもそも考えてみれば、社会という共同体は、何か貢献してくれた人に対して感謝の意を示します。感謝だけで足りない場合、報酬も支払うことがあるでしょう。

 では、皆さんは、何も貢献しない人に報酬を支払おうとしますか。普通はしませんよね。

 しかし我々はこの極めて基本的な事実をとかく忘れがちです。貢献しない人には報酬を支払わない。でも我々は、貢献する前に、何かを奪おうとする。与える前に、何かを得ようとする。

 この考え方って、おかしいですよね。実はこれが私的論理を前提にした生き方です。

 この態度をコモンセンスに準じた生き方に調整する。いわば自分の生き方、不適切だったライフスタイルを、コモンセンスに準じたライフスタイルにちょっとだけ変える。

 誰しも従来のやり方を変えるのは億劫です。しかし、そのままでは何も変わりません。勇気を出して一歩踏み出そう。そうすれば幸福が得られる。アドラーはこのように我々の背中を押してくれるわけです。


 

我々が貢献すべき共同体とは何か?


 では、私たちが貢献すべき共同体とは具体的に何を指すのでしょうか。

 共同体の最も小さな単位は家族ではないでしょうか。となると家族が有するコモンセンスに奉仕するような活動をすれば共同体感覚を得られるに違いありません。

 しかし共同体にはレベルがあります。地域コミュニティは家族を包含します。したがって家族にとって善きことでも、地域コミュニティにとって悪しきことならば、その行為は適切なものとは言えないでしょう。

 さらにレベルを上げると、地域コミュニティの上には国家があり、国家の上には人類があります。こうして共同体のレベルを上へ上へと昇っていくと、「全人類の理想的な共同体」に行き着きます。

 したがって、より上位の共同体感覚は、国や民族への奉仕でもなく、人類全体を包括する理想社会にとっての共通の利益や福祉に貢献することです。


 

共同体感覚は宇宙まで広がる


 さらにアドラーは、共同体感覚の範囲を宇宙にまで広げました。

「(連帯感や共同体感覚は)それは、ニュアンスを違えたり、制限を受けたり拡大されたりしながら生涯続いていき、機会に恵まれれば家族のメンバーにだけでなはなく、一族や民族や全人類にまで広がりさえする。それはさらにそういう限界を超え、動植物や他の無生物にまで、遂にはまさに遠く宇宙まで広がることさえある」(『人間知の心理学』)

 東洋の文化、特に日本の文化には、アニミズムという世界観、天地自然生きとして生きるもの全てが魂を持つという生命観があります。仏教ではこれを「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」と呼びました。

 アドラーの共同体感覚にも、どこか同様の東洋的・日本的な思想に受け継げられてきた香りが漂うような気がするのです。

 

© Akira Nakano pcatwork.com 1999~2016